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 少なくとも、平凡な人生を送ってきたと思います。これからも送っていくでしょう、ええ。今回みたいなのはこれっきりだと思いたいです。…………こんな、警察へ通報する機会なんて、人生一度っきりで十分ですよね?ね?
 ――昼。いえ、夕方に近い時間帯だったと思います。日課ですけど、時間ははっきり決まっていないんですよね。うちのピーター、……犬です……、ピーターの散歩がですね、時間を不定期にしたほうがいいって聞いたもので。犬ってのは良くも悪くも物覚えがいいですから、私が病気でも怪我してても、毎日同じ時間に散歩してればそれに沿おうと散歩を急かしますから。大型犬なんで、大変なんですよ?比較的おとなしいから助かってますけど。可愛いですし。
 …………脱線しました?あ、すいません。
 どこまで話しましたっけ?ああ、散歩ですね。この日はいつもよりちょっと遠出しようと思ったんです。理由は特に……。いえ、決して風呂上りに危険を感じるイベントが起きたとか、そんなんじゃないんですよ?本当に?…………。まあ、それで。
 見ちゃったんですね。怪しい人。最初に気づいたのはピーターで、滅多に吠えないんですけど、林のほうへ向かって、わんっ、て。その先に、荷物押してた、その、怪しい人がいたんですね。なんか作業服みたいの着てましたけど、怪しいって一目で分かりました。運んでるのが怪しすぎますもの。ダンボールに入れてゴミみたいな感じはありましたけど、大きさがちょっと……。それを押して林の中へ向かってましたし、こっちに気づいたらじっと立ち止まって、見つめ続けてくるんです。怖かったです。本当に。
 …………十秒ぐらいそのままだったでしょうか。何とかその場から離れようって、歩き出しました。その怪しい人を刺激しないように、ゆっくり。角を曲がって怪しい人が視界から無くなったとき、すっごく安堵しました。胸を撫で下ろすって、ああいうのなんですね。
 まあその後なんですけど、迷いました。携帯電話は持っていたので、通報はすぐに出来ました。だけど、今見たのを忘れて平凡な日常をこのまま過ごすほうが良いんじゃないかって、迷ったなんてものじゃなくて、九割方そうしようと思ってました。だって危険じゃないですか。通報したのを逆恨みされるかもしれないですし。そもそも何らかの犯罪が行われている確証もありませんでした。警察に話して実際は大した事件も無く終わる、大体そんなオチが関の山じゃないですか、普通。
 まあ結局、通報したわけなんですけど。理由を聞かれても困ります。…………そうですね、きっかけなんて無いですけど、強いて言えば、――――運命。
 ええ、確かに現実はそんなロマンチックじゃないです。強いて言えば、です。強いて。私だってこんな事件じゃなくて、運命なら出会いの方を求めたいです。でもですね、実際はそんなの関係ないじゃないですか。運命なんて求めるもんじゃなく、あっちからやって来るもんですよ。選べません。うん、まあ、とにかく、なんかびびっと来て、通報しました。後付するなら、これは世間に公表しなければならない事件である、みたいな直感で。
 ――――後悔?…………分からないです。何もかもが予想外です。通報したことが正解なのか、見て見ぬ振りが正しかったのか、感じた運命が本当に運命だったのかどうかも…………分かるわけないです。
 だって、当たり前でしょう?まさか、事件があんな結末になるなんて。


 通報後約十分、駅付近にて不振なバッグを抱える青年を現場付近勤務の警察官が職務質問。バッグの中身が通報者が知らせる不審者の衣服と類似したことから、この青年の身柄を確保。警察署へ同行する。
 青年の名前は青木辰康。通報者が述べた現場にいたことを供述するも、何の理由で、何をしていたか、については依然として黙秘。彼が着ていたと思われる緑のツナギには夥しい血痕が付着。警察は青年が何らかの事件に関与しているものとみて取り調べを続けている。


「激しい殴打の痕。ここで誰かと揉めた、というか、暴れた跡がありますな」
 鑑識の報告を受け、顎を一撫で。いや、見れば分かるって。玄関口はぼこぼこで、フローリングの隙間は所々黒い。いっそう古ぼけた感じを演出するこの模様が何で構成されているかなど、いまさら聞かずとも予想は容易い。
「現場に一番近い家屋、一発目から当たりか。ふむ、量は?」
「致死量ですね。これだけ広範囲に広がっていますんで、まず生きてないです」
 まあ、予想はしていた。こういう事件では、被害者はまず生きていない。高い計画性を持った犯人は即ち高い死亡率をたたき出す。
「犯行現場はここ。武器は金属製バッドかな?犯人は被害者をバッドで数十回に渡り殴打。犯行後は死体を袋に入れ、ダンボールで林の中まで持って行き、そこで遺棄。間違いはなさそう?」
「合ってるでしょうね。少なくとも、ここで何らかの事件が起きたのは確かです」
「ふむ……これで林の中から遺体が見つかれば、ほとんど仕事は終わりだな」
「やっぱり殺人ですか。犯人もついていないですね。まさか殺人事件が犯人から発覚するなんて」
「世の中そんなもんだよ。知ってる?職質で事件が発覚するケース、意外と多いんだよ」
「はあ、じゃあ今回も特別な事件ではないんですか…………――――」
「どうした?なんか見つかった?」
 主に自分が面倒くさくない方面の厄介事とか。事件捜査は簡単に限るんですよ。
「ああ、いえ、重田警部。何か見つかったわけではないんですが…………」
 歯切れの悪い返答に嫌な予感が増す。……何か気がかりがあるらしい。
「いや、――――あのですね、ここで、誰が殺されたんでしょう?」
「…………は?」
 家主じゃないの?と目で言うが、それを察した彼の答えは想像以上に嫌なものだった。
「実家が近所なんで知ってるんですけど、ここ、今は誰も住んでないんですよね」
 周りを見渡す。だが、廃屋特有の寂れた感じはしない。生活臭というものが漂っていた。
「本当に?」
「半年前に一人暮らししていた爺さんが亡くなってます。身よりもいないんで近所で葬式挙げましたし、それで覚えてるんです」
 ……被害者は幽霊?だって血痕もあるんだよ?薄いけど、誰かが生活していたような雰囲気もあるし。それってまるでさあ。
「たちの悪い怪談じゃん。よしてくれ、ちゃんと犯人もいて、俺取り調べもしてんだから」
 ですよね、と鑑識も苦笑。冗談にしては手放しで笑えない。まさにその現場を調べている当事者にしてみればなおさらだ。
「ああ、あれでしょ、じゃあここに不法入居していたホームレスがガイシャってところでしょ、きっと」
 思いつきで言ってみるが、非現実的な話でもない。社会弱者である彼らが何らかの被害に遭うのは今に始まったことではないし、力が有り余った青年が力の放出先を求めて、事件が発覚しにくい弱者を餌食にする。うん。容疑者の動機がいまいちはっきりしていなかったんだけど、一石二鳥で意外と良い説なんじゃね?
 ただし出自がはっきりしないホームレスが被害者となると、その身元割り出しはかなり苦労する。面倒くささは当社比二倍になったと見て間違いない。
 …………まあ、なんかしっくり来ないんだけどね。
 と、隣でしきりに納得する鑑識を横目に苦笑いを浮かべる。そう、思えば事件を聞いたときからそうだった。この事件、かなりの違和を感じる。
 一つ一つは本当に瑣末なことだ。言語化するまでも無い、ほんの微かな齟齬。まるで空想に描いた事件と、リアルの事件との、ほんの僅かな齟齬みたいな…………。
「警部!あ、あの、その、見つかりました!」
 林を探索していた捜索隊の声がかかる。物凄く歯切れの悪い声で。
「?見つかったって言うのは、遺体か?」
「あ〜、いえ、その。と、とにかく来て下さい!」
 ふむ。どうやら、違和の正体が明かされそうだ。
 捜索隊の声がするほうへ急いで向かう。姿が見えると彼は先導し、林の中の現場へと急行した。
 現場は崖に近い地形だった。高地と低地から捜索隊が散見できる。目的のブツは崖の下にあるらしかった。捜索隊が無言で崖の下を指す。
 重田警部は崖を見下ろし、思わず口をへの字に曲げた。

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