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 咽るような血の匂いの中、白い吐息が意識せずに漏れ出る。先ほどまでは荒く付いていた息も次第に落ち着き、既に普通の調子を取り戻していた。
 死体を呆然と見下ろす自分がいる。頭は何も考えられない状態を脱し、次第に外界を認識しだした。
 生者だった死者の頭はもはや原形を留めず、髪の間から赤黒い肉と白っぽい肉と、赤い血と白い骨が見えた。派手に返り血が飛ぶものとばかり思っていたが、実際には足の裾にちょっと付いただけだった。しばらく死体に乗っかかっていたが、充満してくる血の臭いに我に返り、取り合えずしなければならないことを思い出す。
 ふらふらと持ってきたダンボールに向かう彼だが、頭の中はいまだ熱に浮かされたようなぼんやり感で一杯だった。
 ……殺した。人を、この手で。
 自分の掌を見下ろす。血に濡れている、という事はない。バッドをしっかりと握り締めていたため、血は手の甲に若干飛び散っただけだった。先ほど足を押さえた右手にも血は付いておらず、そもそも手袋を二重に着けているため素手には一滴たりとも付着していない。
 次にゆっくりを辺りを見回す。フローリングの床は血に塗れ、今も老人の頭頂部から血が吹き出ている。位置が良かったのか、怪我の部位が幸いしたか、血はこちら側とは逆に噴出し、床を流れてきた血は大半が老人が着ている衣服に吸収されていた。
 今、自分の心の中は、遺体に対する嫌悪感も嘔吐感もない。ただひたすらに空虚な達成感があった。言葉にすれば、「終わってしまった」、とでも言えばいいのだろうか。
 …………遺体を、片付けなくちゃ……
 意識して体を動かそうとすると、予想外の体の鈍さに少し面食らった。思わずつんのめりかかってしまう。普段運動していない身体なだけに、いきなりのこの殺人は少し荷が重かったようだ。
 遺体に躓かぬよう注意してダンボールへ手を伸ばす。その中にある物はもちろん、老人に送られてきた宅配便などではない。ゴミ袋、着替え、雑巾などの、数々の証拠隠滅用品だ。
 先ず用があるのはゴミ袋。一枚取り出し、遺体の足から慎重に中へ入れる。頭が少々ボロボロなためゴミ袋へ収めるのに困ったが、用意していたもう一枚のゴミ袋を頭から被せる事にした。骨や脳の欠片は袋の端で掬い取るように収める。そのため傷部へと直に顔を近づける羽目になり、臭いの酷さや物凄い光景に辟易した。家に充満した血の生臭さは既に慣れていたが、それすらも吹っ飛ぶ臭さだ。マスクを用意しておくべきだったと早々に後悔。コレは衣服に染み付いたなと思いつつ、帰りに消臭剤を買う予定を立てた。
 挟み撃ちするような遺体の収納方法に袋の強度が心配になる。どうせ埋めるのだから埋葬場まで持てばいいだけなのだが、この大きさでは引きずる方法以外に持って行きようがない。いい方法がないか少し思案するが、家のソリやリヤカーに手を付けるわけにも行かない。物品証拠はなるべく残したくないからだ。ソリやリヤカーで運んだ際、それを家へとわざわざ戻すのはリスクが高い。と言って、遺棄現場に残すのは目印を立てておくようなものだ。何がきっかけで発覚するか分からないのが殺人事件。余計な手間をかけるのも頂けない。
 良い案が浮かびそうになかったので、取り合えず血の拭き取りに入る。まずゴミ袋の縁を拭取り、次に床一面の赤い血を拭取る。拭取り作業で靴下も雑巾もすぐ真っ赤になってしまった。雑巾は台所などで洗い流せばいいが、靴下はそうはいかない。替えは一着しかなく、また家の中で脱ぐと指紋などを残しかねない。結局、ピチャリ、ピチャリという嫌な感触を拭取り作業の終わりまで味わうことになった。作業終了後は即効着替え、雑巾と一緒にゴミ袋の隙間へ押し込んだ。
 取り切れなかった骨の欠片などはトイレに流した。便器を前にしても、嘔吐感などの正常な人間の反応は表れなかった。その余りの平静な心に、自分は狂ってしまったのではないだろうかとまで感じてしまう。だが今の自分にとって、その冷静さはとてもありがたいものだった。何しろ計画は、これからが重要なのだ。
 血が漏れ出ないように、立てかけてあったゴミ袋を眺める。重さはざっと五、六十キロ。背負うにしては少々敷居が高い。引きずる案は却下。破ける確率は大。一万ベットしても後悔しない、不利な賭け。遺棄現場に決定した場所まではまばらに生えた雑草と柔らかい土壌が連なっている。それでも破ける算段は高い。ちょっとの小石でゴミ袋はお陀仏だろう。
 何か使えるものはないかと周囲を見渡す。ぽつんと目に映ったのは、もう用済みの段ボール箱。使える。
 箱の中に遺体を突っ込む。もちろん入る訳がないが、引きずっても十分な耐久度を得ることができた。ついでに、少し開いた隙間に地に濡れたバッドを突っ込む。横着だが、わざわざバッドを取りに往復するリスクは高い。
 最後に周りを見回す。完璧、とは遥かに遠い。所々拭い切れない血の跡があったり、結構目立つバッドで暴れた跡が残ってしまっている。ただぱっと見では不穏な事件が起こったことなど気がつかないのではないだろうか?もちろん精査して検分すればここで何が起こったか想像するのは容易いだろう。ま、その時は自分の殺人がばれた後なのだろうけど。
 さて、行くか。
 裏口のほうへダンボールを押して行き、少し持ち上げて地面へとゆっくり下ろした。掃除の最中にシミュレートしただけあって、何事もなくスムーズに行く。難しいのは、ここから。
 ワックスの剥げたフローリングより、遥かに難易度の高い荒地を進む。押すのは効率が悪いため、蓋の部分を持って先行する。誰も手入れなどしていない、町の外れ。すぐそばには林が広がり、住宅地の果てであることを示唆している。目標はその木々の中。滅多に人が踏み入れない場所のどこか。
 林が近づくにつれ、土の部分が減り、高い草が目立つようになる。倒れた雑草が天然のレールとなって運びやすくなるが、その反面、行く道がかなり目立つ。ミステリーサークルを思い出してもらいたい。まさにそんな跡が出来つつある。酷く困る。
 後ろのほうで、犬が一鳴きした。
 ぴたりと止まる。ジワリと、手に汗が滲む。
 そっと、後ろを振り向く。野良犬の類なら良かったが、その手合いがわざわざ鳴くはずがない。すぐ吠える野良はすぐ保健所なのだ。
 予想通り、予想したくもなかった予想が当たってしまった。
 イレギュラー。犬の散歩途中の女性が、こちらを見ていた。
 一気に血の気が引く。自分が眼球だけの生き物になったかのように、体の集中は全て視界に集まる。凝視する。女性はどこまでこちらに気づいているだろうか?
 もはや高い草に囲まれた自分。林の影にまみれ、その姿はさらに見づらくなっているだろう。犬が鳴いたほうを単に向いただけ、という期待を僅かに持つ。そんなものは女性がこちらを見続ける時間に比例して薄れていった。犬はもう吠えていない。先ほどの一鳴きだけ。女性は変わらず、こちらを見続けている。
 …………目撃者は全員殺す、などという猟奇性を幸か不幸か、彼は持ち合わせていない。見つかればそれまで。お縄についてお終い。
 だから、ただ願う。気づくな、と。まだ気づいていませんように、と。

 …………女性が前に向き直り、ぽつぽつと歩き始めた。

 …………気づいていない?淡い期待が蘇る。
 もし全身緑のダンボールにゴミ袋を乗せた林に向かう不振人物に気づいたなら、もっと小走りになるのではないか。冷静に推理してみる。
 彼女は別段、何かから逃げるような焦る素振りは見せていない。そういうことは、自分に気づいていないのではないか。気づいたとしてもゴミを不法投棄する不埒者と考えたのではないか。落ち着いて考えればこんな間近に殺人鬼が潜んでいるなどとは考えないのではないか。
 『〜ではないか』などという期待が次々浮かぶ。今気づいたことだが、窮地にあって期待という感情は精神安定剤の効能をもたらす。期待できる内は、まだ体を動かせる。もし女性が何か不審な素振りを見せていたとしたら、心が折れ、ここから何もかも放り出して逃げ出していたかもしれなかった。
 大きく、息を吸い込む。犬が一鳴きしてから、呼吸を忘れていた。なら、実質時間は一分も経っていなかったんだろう。少なくともそれ以上、息を止めていられる自信はないから。
 ゴミ袋の移動を開始する。女性に見つかったことは少なからず、自分の焦りに繋がっていた。早く、早く、埋める場所を決定しようと血眼になって土の露出した部分を探す。
 ――僥倖。自分の聡明さに思わず自讃しそうになった。
 目の前にあるのは、身長分の断層。隆起したか陥没したか、どちらにせよ穴を掘る手間が省ける名案を思いついた。
 林の入り口にとって返し、用意してあったシャベルを掴んで断層へ向かう。
 下の地面へ向かって、遺体が入ったゴミ袋を落とした。バチャッという何とも言えない音がした。黒いゴミ袋は狙い通り、断層という壁の近くに落ちた。後は自分が今立っている、雑草が生えてはいるが比較的掘りやすい地面を削り、下の遺体へ掛けるだけ。何ともお粗末な死体隠蔽だが、スピードを重視するならこれ以上無い名案のように思えた。
 上の地面が一箇所だけ欠けないよう、平らに地面を削っていく。遺体の直情だけぽっかり削れていたなら、この上ない目印になる。もちろん土を掛けただけならそこだけ盛り土になり、これもまた目立つ。そのため下の地面を均すため、一度降りた。上とは違い断層の下はところどころ土が露出し、死体隠蔽に少し役立ったシチュエーションだった。雀の涙ほどの違いかもしれないけど。
 シャベルで神経質に均した後は、シャベルを林の奥へ放り投げた。遺体と違い壊れかけのシャベルなら、見つかったところで殺人事件とすぐ結びつかないだろう。何より、手にして戻ったときの処理が面倒だった。
 先ほどシャベルを取りに戻った際の行程を辿る。そこに逃走用の靴が隠してある。殺害した相手の家側から逃走する愚は冒さない。倒してしまった雑草を手で適当に立て直しながら、再び遺棄現場のほうへと戻る。そして現場を通り過ぎ、来た道とは逆の方向へ向かっていった。
 殺人は終わった。

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